研究テーマ

非平衡系の物理学

生命現象の情報理論

当研究室では生命現象に代表されるような平衡から遠く離れた系を取り扱うために, 非平衡統計力学と情報理論の境界領域で理論物理の研究をしています. 中でも, 確率過程における熱力学と(古典)情報理論/情報幾何との接点や, 生体システムの情報処理に興味をもって研究を行っています.

非平衡系の物理学から生命現象における情報処理を理解する

学部で習う熱力学・統計力学では, マクロな系の平衡状態および平衡状態間の遷移を取り扱います. ところが我々の周りを見渡していると, 平衡から離れた状態やダイナミックな変化が随所にみられることがわかるでしょう. 特に生命現象においてその傾向は顕著であり, 対象が生きている限り真の意味での平衡状態は達成されていません. このようなダイナミックな現象は一般に非平衡現象と呼ばれ, 熱力学・統計力学のテーマとしても生物物理のテーマとしても重要視されてきました. これまでにも非平衡現象について数多くの重要な発見・発展がなされてきた一方で, 解くべき未解決問題や未解明現象も依然として多く残されています.

中でも, 非平衡現象における興味深いテーマの一つに情報処理が挙げられます. 情報処理は生命現象においても根源的なテーマであり, 生体内では単一分子から細胞集団までの様々なスケールの情報処理によって生体システムが維持されています. しかしながら非平衡現象における情報処理の物理的な理解はまだ限定的で, 特に生命現象に関する理解は根本的に不十分だと考えています. よって, 非平衡現象での情報処理に関する一般的な理論の枠組みを構築することが, 生命現象の理解において重要なステップであると考えて研究しています. またこの枠組みの構築は物理学全体への根本的な貢献にもなるとも考えています. 

これまでの研究

ネットワーク上の情報熱力学

近年, 非平衡現象の研究の中でも, マクロとミクロの間の中間領域であるメゾスコピックなスケールを記述可能な確率過程における熱力学の理論(ゆらぎの熱力学)が発展しています. このゆらぎの熱力学は, 分子モーターや生化学ネットワークなどの生体システムへの適用が可能であり, 生命現象の基礎的な物理理論の一つとして着目されています. その中でも我々は熱力学と情報理論の接点「情報熱力学」に興味を持って研究をしており, 生体システムにおける情報処理の熱力学的な制約を, 系の詳細に依らない普遍的な法則性を通じて理解しようとしています.

特にMaxwellのデーモンの議論に端を発する熱力学的なエントロピーと情報量の間の関係は, 情報項を含んだ形での熱力学第二法則の一般化として定式化されることで理解が進んでいます. 我々はベイジアンネットワークと呼ばれる確率的な相関を記述する手法やマルコフネットワークの理論(Schnakenberg)などを用いて, 複雑に相互作用する自律的な系において熱力学第二法則を一般化し, 情報の流れの各指標(相互情報量, transfer entropy, learning rate, directed informationなど)が, どのように熱力学第二法則やオンサーガ相反関係の一般化に影響を与えるかを調べてきました.

Ito, S., & Sagawa, T. (2013). Information thermodynamics on causal networks. Physical review letters111(18), 180603.

Ito, S. (2016). Backward transfer entropy: Informational measure for detecting hidden Markov models and its interpretations in thermodynamics, gambling and causality. Scientific reports6, 36831.

E.coli走化性シグナル伝達の情報伝達と情報熱力学

我々はさらにネットワーク上の情報熱力学をもちいて, E.coli(大腸菌の一種)の走化性シグナル伝達での受容体のメチル化による適応のダイナミクスを, 情報処理の熱力学的な性能の観点から考察しました. 特に, 情報項を含んだ形での熱力学第二法則を利用することで, 入力のノイズに対する出力の頑健性(ロバストネス)が, シグナルネットワーク中に流れる情報によって抑えられるという法則性を調べ, 通信路符号化定理に代表されるような情報理論との関係を調べました.

Ito, S., & Sagawa, T. (2015). Maxwell’s demon in biochemical signal transduction with feedback loop. Nature communications6, 7498.

大腸菌に潜む「マクスウェルのデーモン」の働きを解明―情報と熱力学の融合による生体情報処理の解析への第一歩―

情報幾何と生体システムの熱力学的トレードオフ関係

またE.coliの走化性における適応のダイナミクスに代表されるような生体の情報処理において, 機能の正確性やスピードを高めるために十分な熱力学的なコストを支払っていることが知られています. これは熱力学的なトレードオフ関係(例えばenergy-speed-accuracy trade-off)とよばれ, 様々な模型で各論的に調べられてきました. これに対して我々は情報幾何とゆらぎの熱力学の間の関係性を明らかにすることで, 普遍的な熱力学的トレードオフ関係の一種を導出しました。

Ito, S. (2018). Stochastic thermodynamic interpretation of information geometry. Physical review letters121(3), 030605.

Ito, S., & Dechant, A. (2020). Stochastic time-evolution, information geometry and the Cramér-Rao Bound. Physical review X, 10, 021056.

情報の幾何学から熱力学的な不確定性原理を発見~生体内の“ゆらぐ化学反応”による情報伝達の普遍的な理解へ~

情報による観測量の変化速度の熱力学的な限界を発見

情報幾何とゆらぎの熱力学, 情報熱力学

また我々は情報幾何を用いたゆらぎの熱力学及び情報熱力学の整理や, 理論の拡張にも興味を持っています. そこで, まずは熱力学第二法則と情報熱力学第二法則の結果を, 情報幾何における射影の観点から整理できることを明らかにし, 部分と全体の間の関係から統合情報理論の一種であるstochastic interactionとの関係を議論しました. また緩和するダイナミクスにおける、ゆらぎの熱力学における熱力学力と流れと情報幾何学的な双対な座標の関係について議論しました. 情報幾何の双対構造を使うことで、非平衡自由エネルギー(エントロピー生成)と、外場下の平衡自由エネルギーとが、Legendre 変換で結びつくことを発見しました. この関係を応用して、外場下の平衡状態での測定から、緩和過程のエントロピー生成を推定する手法を構成しました.

Ito, S. , Oizumi, M., and Amari, S-I. (2020). Unified framework for the entropy production and the stochastic interaction based on information geometry. Physical Review Research 2, 033048

Ohga, N., & Ito, S. (2021). Inferring nonequilibrium thermodynamics from tilted equilibrium using information-geometric Legendre transform” Physical Review Research 6, 013315.

化学熱力学とゆらぎの熱力学のアナロジー

我々は近年, 決定論的な力学系であるレート方程式によってダイナミクスが記述される化学反応ネットワークにおける化学熱力学と, 確率分布の時間発展で表されるマスター方程式上のゆらぎの熱力学の間のアナロジーについて考察しています. 例えば, ゆらぎの熱力学における情報幾何のアナロジーとして, ギブスの自由エネルギーが一般化KLダイバージェンスと呼ばれる情報理論の言葉で記述可能であることを用いて, 熱力学的なトレードオフ関係についての研究を行いました. またゆらぎの熱力学で研究されていた熱力学的不確定性関係と熱力学的速度制限について, 化学熱力学における対応物についての研究を行いました. また、化学熱力学で基本的なギブス自由エネルギーを用いて、情報幾何学的な構造を表す双対座標系を具体的に構成しました. これにより、化学熱力学とゆらぎの熱力学が統一的な情報幾何構造を持つことを明確に示しました.

Yoshimura, K., & Ito, S. (2021). Information geometric inequalities of chemical thermodynamics. Physical Review Research3(1), 013175

Yoshimura, K., & Ito, S. (2021). Thermodynamic uncertainty relation and thermodynamic speed limit in deterministic chemical reaction networks. Physical review letters127(16), 160601.

Ohga, N., & Ito, S. (2022). Information-geometric structure for chemical thermodynamics: An explicit construction of dual affine coordinates. Physical Review E106(4), 044131.

化学反応において普遍的に成り立つ非平衡熱力学法則を導出

最適輸送理論とゆらぎの熱力学

我々はゆらぎの熱力学と情報幾何学の対応関係と同様の手法で, 確率分布における微分幾何学的な理論である最適輸送理論を用いてゆらぎの熱力学を幾何学的に捉え直す研究も行っています. 特にブラウン運動における確率分布の最適な輸送を考えることで, エントロピー生成のWasserstein幾何学的な表現と, その幾何学的な表現を用いた最小エントロピー生成を与える熱力学的速度限界や, エントロピー生成の定常状態熱力学的なexcessとhousekeepingと呼ばれる二つの寄与への幾何学的な分解, 及び射影の観点から定常状態熱力学における熱力学的不確定性関係を導出しました.

Nakazato, M., & Ito, S. (2021). Geometrical aspects of entropy production in stochastic thermodynamics based on Wasserstein distance. Physical Review Research3(4), 043093.

Dechant, A., Sasa, S. I., & Ito, S. (2022). Geometric decomposition of entropy production in out-of-equilibrium systems. Physical Review Research4(1), L012034.

情報幾何とpopulation dynamics

我々はpopulation dynamicsにおけるトレードオフ関係を, 情報幾何を用いて探る研究も行なっています. 特に増殖と変異が独立に起きるモデルに対し, 増殖の効果と変異の効果のそれぞれに対応する部分的なFisher情報量に注目することで, population dynamicsに特有の新しい速度限界を見出しました.

Hoshino, M., Nagayama, R., Yoshimura, K., Yamagishi, J. F., & Ito, S. (2023). A geometric speed limit for acceleration by natural selection in evolutionary processes. Physics Review Research 5, 023127.